市の主体性にもとづく理念

本来たらこうした部局が、長年乱叩発に悩まされてきたのだから、このさい新たな法律の判定を利川して、開発をコントロールする方向に向かいそうだが、事実は逆になる。開発の窓口部局は、議会や開発事業者からの圧力も直接うけやすいし、全体のことを考えるよりも、白分のところにかかる爪力か減らそうとして行動する。そして、けっきょく駈け込み的に、開発事業に許可を与えてしまう。事実、開発事業者も線引きにそなえて、既成事実をつくることに汲々としていた。

新しい制度が生まれた場合に、その時点以前に出来上がった事実は、承認せざるをえない。この時点での開発事業の進行している区域は、膨大なものであった。その結果、調整区域は、市域全体の二五%に縮められた。乱暴ともいえる素案に比べれば、たしかに大幅な調整区域の減少ではあるが、市街化区域編入の条件は、既成事実の確定したもののみに押さえてある。もし独自の素案がなかったら、当時の県の考えや開発圧力からみて、九〇%は市街化区域になったであろう。それからみれば成功といえる。もちろん見た目には素案から大きく下っている。

しかし、それは建設省通達にかかわらず、調整区域を多くするという戦略を自主的に立て自らにも負担を課した目標であって、始めから目標を下げておけば、どういうことはない。つまり、通常の行政は思想をもかないから、できそうもないことは、始めから目標にしない。だから始めから現実に近いものを原案にしておく。これでは現実は進歩しない。しかし、企画調整部の方法は、思想と戦略をもち、困難でも高い目標をかかげておく。それにょって現実をすこしでも変えてゆくことができるのである。

なんでもそうだが、始めから二〇点を満点にしておけば、さしたる努力なしに達成できるだろう。しかし、目標を一〇〇点にしておけば、五〇点、六〇点をとるのもむずかしいかもしれない。「できなかったじゃないか」と責められることが多い。しかし二〇点よりはずっとよいはずである。いつもできる範囲の目標をかかげて、無難にやる役所流よりも、困難に亀あえて挑戦し、目標を高くかかげる施策を行たってゆくべきであろう。

横浜市の線引きは、市の主体性にもとづく理念と戦略をもち、これに従って手段を積みあげ、あらかじめ反対を予測して、あるていどこれを吸収できる方法をとってきたため、一般の都市よりははるかに都市づくりにとって意味のある結果が得られ、のちのちへの貴重な財産になっている。市街化区域を多くしてしまえば、その後市が政策的にとりうる余地はわずかしかなく、あの勝手に乱開発が行なわれた、昭和三〇年代と変わりなくなってしまうからである。

年金額の計算

積立式において、保険料は将来にわたって一定の水準を保つように算出される。これを「平準保険料」と、よんでいる。しかし平準保険料には、将来の給付費が経済状勢の変化によって影響をうけること等はふくまれていない。したがって、平準保険料が将来にわたって変わらないことはありえない。給付水準の引き上げ、物価スライドの実施等により給付費は増加し、平準保険料の引き上げを行なわなければならない。

厚生年金、国民年金では、五年ごとの財政再計算の際に、その時点での給付水準を将来とも維持していくのに必要な「平準保険料率」を計算するが、平準保険料率は次第に上昇する。しかし実際には、国民年金、厚生年金とも保険料率は平準保険料率より低く設定されている。将来の給付費を見込んだ平準保険料率は高くなり、年金加入者にとって負担は大きいので、保険料率を平準保険料率より低く設定して、段階的に引き上げる方法をとっている。この方式は完全な積立式ではなく、賦課式に近づく。つまり積立式と賦課式の中間であり。「修正積立式」とよんでいる。日本の年金の財政方式は、この修正積立式で運営されている。この方式では年金給付費用の一部は現役世代に負担してもらうわけで、部分的賦課式ということができる。

年金はどのようにして計算するのか。自分の年金額はどんな計算で出されるのか。これはだれでも知りたいと願うことである。制度によって計算法がすこしずつ違うので、くわしくは読んでいただくことにして、ここでは原則的なものを述べておきたい。年金の計算法は、大きくわけて「定額方式」と「所得比例方式」があり、両者を組み合わせた制度もある。ドイツ、フランスなどの大陸型の制度は、所得に比例する制度であり、スウェーデン、カナダなどは一階の基本部分は定額、二階部分が所得比例である。日本の厚生年金も、「定額部分」と「報酬比例部分」の組み合わせである。

厚生年金の定額部分は、所得とは関係なく、定額単価に加入月数、スライド率をかけて算出する。したがって、加入月数が長ければ、低所得の人でもこの部分の年金額は高くなる。低所得だった人を配慮した方法であり、所得の再配分という社会保障の目的にかなっている。しかし、八五年改正によって、右の定額部分の効果は次第に変わることになる。改正では、定額部分の定額単価を一歳刻みで切り下げる経過措置がとられた。高年齢の人は比較的高い定額単価だが、一九四六年四月二日以後に生まれた人の単価は二八八円二九八九年)に一定した。つまりこの年齢以降の人は、この定額単価をもとに計算する定額の老齢基礎年金をもらうことになる。こうして定額部分は、頭打ちとなってしまった。報酬比例部分では、収入の高かった人に、より高い年金が保障されるわけで、所得の再配分の効果という点では十分でない。

円高とコストダウンのイタチゴッコ

一九八五年に始まった円高が結局空洞化を生じなかったのもこの日本型経営システムが原因になっている。日本社会では企業が存続しなければ意味がない。また、日本製品の品質の高さは労働者間の協調体制、労使協調によって生まれていたのであり、下請企業からの品質の高い部品供給が不可欠であった。親企業も円高だからといって単独では海外へ移動できなかったのである。しかも、「ガソバロウ」で合理化による生産性引上げが可能であった。バブル期には直接投資が盛んに行われたが、これがただちに日本経済を空洞化に導くことはなかった。

しかし、労使協調による企業存続のための努力は、それ自身のうちに明らかな矛盾を持つ。日本企業がコストの引下げに頑張れば、輸出は減らないことになる。企業としては、需要を維持し雇用を維持することになる。ところが、日本経済全体では円高にもかかわらず輸出が維持されることになる。実際、表のように円高と輸出はあまり関係がありそうにない。数量ペースでも減らない。輸出が減らなければ経常収支黒字は減少しないのでまた円高になる。円高になれば再び「ガソバロウ」となる。合理化が行われると、輸出を抑えることができない。このようにして、円高とコストダウンのイタチゴッコが続くことになる。

一般に、社内レートは現実のものより厳しくして、経営計画に余裕をもたせるように設定する。ところが社内レートを上げると、それを基準に合理化を行い、競争力がついて輸出が伸びて経常収支黒字となり、その社内レートが実現してしまう。そうすれば、また社内レートを上げなければならない。

アメリカの企業であれば、為替レートが高くなって輸出ができなくなれば、そのような儲からない商売は止めるだけである。余った従業員は解雇すれば何の問題も生じない。企業には利益のない仕事を続けなければならない理由はない。利潤最適化の原理通りに企業が行動するかどうかは別にしても、企業が利潤を無視して生産を続げることは許されない。しかし、従業員を解雇できない日本企業は、ともかく頑張らなければならない。日本型経営システムでは、企業が利潤を上げるかどうかは最重要課題ではない。

秘密が守られる時・破られる時

私がここで行ないたいことは、日本外交から必要のない霞の部分を吹き払って、外交を真に国民的なものにするためには、どういうことが求められているかということを模索することである。「必要のない霞の部分」とわざわざ記したのぱ、外交には確かに秘密を要する部分があるという私なりの実感があるからである。その点についても、私なりの考え方を述べてみたいと思う。

まず、「霞が関外交」に主権者である国民の監視・監督の目が及ぶことを妨げている要因は何か、という角度から同外交の課題と考えるべきポイントを整理して考えてみたい。

外交は、国内問題と異なり、本質的に全面的な公開性という要請を満たし得ない性質をもっている。外交が主として国家間の利害の調整を重要な内容としてもっていること、その利害の調整は双方の冷静な対応が確保されることが成功の条件となること、国民は往々にして感情的になりがちであること、従って特に折衝・交渉段階では主権者である国民が一時的にせよ「目隠し」状態を求められる場合があり得ること、等々の事情を考えれば、外交には秘密性が必要とされることがあることは理解されるだろう。

確心に、折衝・交渉過程の秘密性が守られない場合もある。例えば、交渉を有利に進めるため、あるいは不利な交渉上の立場をびっくり返すために、国内世論を起こそうとするときに、相手国側にとって明らかにされたくない内容部分を故意に流すという操作が行なわれる。

かつて日本政府が中国政府に法外な「二十一箇条の要求」を突きつけたとき二九一五年一月)、中国側は日本の要求を暴露して国民世論さらには国際世論の対日批判を盛り上げることに成功し、日本はその要求をひっ込めざるを得なくなったことがある。

テレビは「元服」して何になるか

パソコンに計算以外のほかの仕事をさせなければならない。何がよいか。それは明らかである。パソコンの中に映像を取り込んで、パソコン画面でテレビや映画を見られるようにする。パソコンの中に電話を取り込んで、テレビ電話として使えるようにする。テレビと電話の機能をパソコンに吸収して高度に融合させる。夢をこめてこれをマルチメディアと呼んだのである。パソコンはハイペースで性能を向上させ、そのうちに力を持て余して、マルチメディアへと突き進まざるを得ない。もはやパソコンはパソコンの時代を終える。パソコンは「元服」してマルチメディアになる。

実際、その変化は始まっている。八〇年代からすでに、米国のアッデルコンピューターのパソコン「マック」平日本の富士通のパソコン「FMタウンズ」は「マルチメディアの入り口の商品」と呼ばれるようになった。CD−ROM装置を付加して、さまざまな映像が画面に表示される。音声も、音楽も、パソコンから出てくる。パソコンで映画が見られ、音楽が聞ける。先進的なア″プル社の製品だけでなく、標準的なパソコンでも、九二、三年ごろからこうした機能を備えるようになった。米マイクロソフト社の「ウィンドウズ」の登場で可能になったのである。

九四年の後半からは、NECや松下電器産業、日本アイービー・エム、アイワなどが、一般のテレビ放送も画面に映し出して見られるパソコンを一斉に発売した。画面の中で自由に枠を設定して、テレビを映すことができる。パソコンは確かにテレビの機能を取り込み、ステレオの機能を取り込みつつある。毎年性能が六〇%も向上している。最初は映像の画質が悪くても、音楽がいまいちノリが悪くても、パソコンの性能向上に伴って、映像が目に見えて良くなり、音楽に迫力が出てくる。着実にパソコンはマルチメディアに育って行く。

パソコンが元服してテレビを取り込み、マルチメディアに発展して行くとしたら、テレビはどうなるのか。結論から言うと、テレビも「元服」してマルチメディアになる。ただし、これは米国の話である。注目すべき統計がある。米国の統計である。九四年のパソコンの販売台数がざっと一千八百五十万台に達した。これに対してテレビそのものは二千万台程度である。九五年か、遅くとも九六年ころには、パソコンの販売台数がテレビの販売台数を上回ることは確実だろう。もちろん、パソコンでテレビを見る機能がどんどん拡充して行く。特別に大型の画面で迫力ある映像を見たいという時でなければ、マルチメディア化したパソコンでビデオやテレビ放送を見れば十分である。三、四年後の米国では子供たちはパソコンのことを指してテレビと呼ぶかもしれない。パソコンは「次世代テレビ」である。

いずれはさらにマルチメディア技術が進展し、テレビ機能は現在よりも数段、優れたものになる。そのカギを握るのが「MPEGH(エムペグツーと発音する)」と呼ばれる技術である。キーになる技術なので、多少、説明を加えよう。テレビやビデオなどの映像情報を一とOのデジタル情報に分解した上で、高速で遠隔地に送信できるように、必要最小限の情報だけを送り、後は省略する技術である。データを大幅に減らすので「圧縮」とも呼んでいる。

圧縮して送る側と受ける側で同じ規則を使わなければならないので、その標準となる規格作りが行われている。これが完成すれば、テレビはパソコンと同じ規格のデジタル方式で運用されるようになる。これまでのアナログテレビからデジタルテレビに移行する。わかりやすく言えば、テレビはパソコンの一つの構成部品になってしまう、ということだ。パソコンと呼ぶのが気に入らなければ、マルチメディアの構成部品と言えばよい。

パソコン(マルチメディアでも結構)で見るテレビはこれまでのテレビより高機能である。すでにコンピューターの一部だからいろいろできる。記憶装置に記録して後でじっくり見ることもできる。VTRもパソコンに吸収されるわけだ。映像の一部を拡大して詳細に見ることも、登場人物の顔を別の顔に取り替えることもできるかもしれない。ビデオカメラで撮影した像を取り込んで子供の成長記録を編集したり、映像入り出張報告書を作成したり、と多彩である。テレビはコンピューターであれこれ映像情報を操作できるマルチメディアに「成人」して行く。

黒人問題

だが、ケネディが大統領に在任中、アメリカ国内で彼をもっとも悩ませたのは、いうまでもなく黒人問題だった。アメリカの黒人は、第二次大戦後に制定された憲法修正第十四条、および第十五条によって、法律的には平等ということになっていたが、南部の諸州では、州法や地方条例によってさまざまな差別が行われていた。こうした州法や条例は違憲だったが、その法律を違憲として無効とするためには、そのたびにいちいち最高裁違憲判決が必要だった。

一九五四年、合衆国連邦裁判所は、公立学校における人種差別を違憲とする判決を下した。一九五七年に議会を通過した公民権法では、黒人の投票権が認められないような場合には、司法長官がこれに介入できるようになった(だがこのときには、学校での差別廃止やその他の公民権事項を実施させる命令を、関係者からの訴えがなくとも司法長官が自由に出せるようにしようとした項目は否決された)。アメリカの憲法ではそれまでも黒人の投票権は認められていたが、南部の州では、有権者登録をするさいに、州憲法や州法の一節を読解させたりする読み書きテストを州民全体に課すことによって、実質的に黒人の投票権に制限を加えていたのである。

こうした差別をなくすために、アメリカの南部では、黒人たちの長く辛い闘いが続いていた。その闘いの一環として、一九五五年から五六年にかけて、アラバマ州のモントゴメリーでは、黒人によるバスーボイコット運動が行われた。一九六〇年二月には、ノースカロライナ州のグリーンズボローズで黒人学生がランチカウンターで食事をするのを断られたことをきっかけに、座り込み運動を始めた。こうした運動を指導したのが、当時まだ二十六歳の無名の若者にすぎなかった、バプティスト教会のマーティンールーサー・キング牧師だった。これらの運動はいずれも非暴力の抵抗というかたちをとった。

一九六一年五月からは、フリーダムーライダーズ「自由のための乗車運動」が始まった。これはいくつかのグループを北部から南部に派遣して、バスーターミナルのレストランや待合室、トイレなどで差別待遇に挑戦しようとした運動だったが、アラ、バマ州では白人の暴徒に襲われ、ライダーズたちはこん棒や鉄パイプで殴られた。しかしそれに屈することなく、急進的な学生非暴力調整委員会(SNCC)や南部キリスト教指導者会議はさらに多くのライダーズをアラバマに向けて送りだした。

それに伴って白人による襲撃も激化し、ときにはバスに火がかけられることさえあった。暴徒は百人以卜になり、ライダーズの数も千人以上になった。いまにも大暴動が起こりそうな気配だった。事態を憂慮した司法長官のロバートケネディは、友人のジョンーサイゲンサラーを現地に派遣したが、彼も暴徒に殴られて意識を失うありさまだった。

労務対策にも役に立つ

高度成長の一瞬には、小企業から大企業にはいのばれるチャンスもあったが、造船不況下に典型的にみられたように、むしろ大企業から小企業へと転落していくものが多くなってきた。もちろん、そのなかには、自動車工場の労働者のように、息の詰まるような合理化に耐え切れず、収人が下がったにしても、小企業の「自由」にあこがれるものもふくまれていたりするのだが自動車工場での離職者の多発は、ついこのあいだまで常識だったのだが、オイルショックの後ではすこしおさまっている。

しかし、それは労働強化が緩和されたということではない。むしろコンベアのスピードアップはいまなおつづき、「あらゆるムダの排除」の叫びは、国際競争の「全面戦争」時代を迎えて、さらにカン高くなっているほどである。それでも、労働密度がさらに高くなったにしても、トヨタの労慟者のいうシャバ」の景気が厳しければ、農村に帰る長男や、身体や神経を侵されて脱落するものを除いて、たいがいはコンベアにしがみついて暮らしている。

もうひとつあらたな理由は持家制度である。トヨタ自工の自慢は、世帯もち労働者の七割が持家に住んでいる、ということである。この数字は、同社の広報課が流す住宅分譲の記事として、各紙に登場している。日本一高収益会社の労働者が、いかに恵まれているか、それをこの数字か物語ることになる。「トヨタ自工が従業員の持家制度を発足させてまる一七年。いまでは世帯持ちの七割近くがマイホームを持っているという。従業員の雇用定着対策の意味もあるとはいえ、同社の持家の平均年齢は三二歳。一般のサラリーマンにとってば、全くうらやましい話」(「中日新聞」一九八一年二月二日付)