伝統的な金融行政

われわれが国民の日常生活の観点から維持しなければならないのは前者である。そして大部分の金融機関にとって死活問題であるのは、まさにこの問題である。このあたりには、国民経済の将来性、当面の国民の利便、個々の金融機関経営の立場などの間に、問題意識のズレがある。このようなことも、最近の金融論議がわかりにくいひとつの理由となっている。

伝統的な金融行政の拠り所ともなっている金融の公共性という考え方にも、上記の問題は影響を与えている。私は初めて金融行政に携わったとき、金融行政の大先輩から、次のような教えを受けた。金融行政は、金融業の公共性と効率性という二つの中心を持つ楕円である。バランスのいい美しい楕円を描くように心がけなさい。しかしおそらく、従来の金融行政はどちらかといえば、やや公共性に重心をかけ過ぎていたように思う。

そのような考え方の前提になっている金融業とは、社会のインフラとして国民経済の円滑な運営に脇役として働く存在である。一般の産業のように、より高い利潤を目指して、場合によっては取引先を出し抜いてでも利益をあげる存在ではない。世界的に活躍するアメリカの金融機関のROE(株主資本利益率)は一四%以上とも言われる。先進諸国の実体経済の成長率が二九二%のときに、金融機関だけが飛びぬけた利益を上げ続けることに納得できないのは、単なる感情論ではない。

従来の金融行政は、伝統的な金融業を対象とし、どちらかというと金融業の公共性・安定性を重視してきた。これに対し、ビッグバンなどという言葉に代表される最近の金融論議や行政批判には、先端産業としての金融業の立ち後れに対する苛立ちがこもっている。この間には、案外深い川が流れているのではないだろうか。