直面するアイデンティティ危機の克服

地域住民や地域自体のアイデンティティ危機を克服するためには、地方政府、民間、住民といったさまざまなレベルで問題の重要性に気づき、それぞれのやり方で地域資源への関心を高めることが重要である。地方自立を促す地方分権化はその意味でアイデンティティ危機克服のための格好の機会である。そして、地域アイデンティティの重要性を気づかせるための働きかけの一つとして、インドネシア国内の各地域において、研究機関・在野を問わず、地域社会・文化を対象としたよりミクローレベルの「地域研究」がもっともっと行なわれていく必要があるのではないだろうか。直面するアイデンティティ危機を克服するためにも、国内地域研究を推進する環境整備を今すぐ始めなければならないと考える。

帰国してすでに1年が経った。スラウェシでの臨場感にあふれた緊張した日々は、すでに過去形で語る世界になってしまった。専門家という開発実務家として過ごした5年間は地域研究を志す者として自分が何のためにインドネシアを学び続けているのかを問い直す貴重な機会となった。さまざまな経験のなかで、自分の見てきたインドネシアがいかに狭く浅いものであるかを思い知ったし、研究者と実務家との違いについても思いをめぐらせたし、何よりも研究や論文の世界と現実の世界との間に信じ難いような距離があることを実感した。

今、私が研究所でやっていることはインドネシアで関わってきた人々や彼らをとり巻く社会にとって、どれほどの意味をもつのだろうか?インドネシアの現場で毎日否応なく対峙させられたリアリティが、どんどん遠くなっていくのを感じる。長年にわたるスハルト体制が崩壊したインドネシアは、これまでとは違う新しいインドネシア像を探る試行錯誤の道をたどり始めている。外見上は危なっかしくて心配で仕方がないし、一見するとスカルノスハルトの時代に戻ろうとしているかのようにみえるが、現場で定点観測していると、さまざまなレベルで変わり始めた何かが見える。

住民を無視した自己中心的な学生デモを痛烈に批判するベチャ(輪タク)曳き、かつては何でも金だったのに今では地域に必要な技術支援を求める村長、村々を巡回してジャワで学んできた有機肥料作りの技術を教える農民グループ、ジャカルタからの指示待ちをやめて自ら考え始めた県知事・市長、中央集権ではない新しいインドネシア・モデルを地方から提案しようと真剣に議論し始めた大学教授。少しずつではあるが「インドネシア人は」と一括りに単純化されて言われてきたものとは違う何かが、外部からは見えにくいところで動き始めている。

直面するアイデンティティ危機の克服

地域住民や地域自体のアイデンティティ危機を克服するためには、地方政府、民間、住民といったさまざまなレベルで問題の重要性に気づき、それぞれのやり方で地域資源への関心を高めることが重要である。地方自立を促す地方分権化はその意味でアイデンティティ危機克服のための格好の機会である。そして、地域アイデンティティの重要性を気づかせるための働きかけの一つとして、インドネシア国内の各地域において、研究機関・在野を問わず、地域社会・文化を対象としたよりミクローレベルの「地域研究」がもっともっと行なわれていく必要があるのではないだろうか。直面するアイデンティティ危機を克服するためにも、国内地域研究を推進する環境整備を今すぐ始めなければならないと考える。

帰国してすでに一年が経った。スラウェシでの臨場感にあふれた緊張した日々は、すでに過去形で語る世界になってしまった。専門家という開発実務家として過ごした五年間は、地域研究を志す者として、自分が何のためにインドネシアを学び続けているのかを問い直す貴重な機会となった。さまざまな経験のなかで、自分の見てきたインドネシアがいかに狭く浅いものであるかを思い知ったし、研究者と実務家との違いについても思いをめぐらせたし、何よりも、研究や論文の世界と現実の世界との間に信じ難いような距離があることを実感した。

いったい、今私か研究所でやっていることは、インドネシアで関わってきた人々や彼らをとり巻く社会にとって、どれはどの意味をもつのだろうか。インドネシアの現場で毎日否応なく対峙させられたリアリティが、どんどん遠くなっていくのを感じみ。長年にわたるスハルト体制が崩壊したインドネシアは、これまでとは違う新しいインドネシア像を探る試行錯誤の道をたどり始めている。外見上は危なっかしくて心配でしかたがないし、一見するとスカルノスハルトの時代に戻ろうとしているかのようにみえるが、現場で定点観測していると、さまざまなレベルで変わり始めた何かが見える。

住民を無視した自己中心的な学生デモを痛烈に批判するベチャ(輪タク)曳き、かつては何でもカネだったのに今では地域に必要な技術支援を求める村長、村々を巡回してジャワで学んできた有機肥料作りの技術を教える農民グループ、ジャカルタからの指示待ちをやめて自ら考え始めた県知事・市長、中央集権ではない新しいインドネシア・モデルを地方から提案しようと真剣に議論し始めた大学教授。少しずつではあるが、「インドネシア人は」と一括りに単純化されて言われてきたものとは違う何かが、外部からは見えにくいところで動き始めている。

伝統的な金融行政

われわれが国民の日常生活の観点から維持しなければならないのは前者である。そして大部分の金融機関にとって死活問題であるのは、まさにこの問題である。このあたりには、国民経済の将来性、当面の国民の利便、個々の金融機関経営の立場などの間に、問題意識のズレがある。このようなことも、最近の金融論議がわかりにくいひとつの理由となっている。

伝統的な金融行政の拠り所ともなっている金融の公共性という考え方にも、上記の問題は影響を与えている。私は初めて金融行政に携わったとき、金融行政の大先輩から、次のような教えを受けた。金融行政は、金融業の公共性と効率性という二つの中心を持つ楕円である。バランスのいい美しい楕円を描くように心がけなさい。しかしおそらく、従来の金融行政はどちらかといえば、やや公共性に重心をかけ過ぎていたように思う。

そのような考え方の前提になっている金融業とは、社会のインフラとして国民経済の円滑な運営に脇役として働く存在である。一般の産業のように、より高い利潤を目指して、場合によっては取引先を出し抜いてでも利益をあげる存在ではない。世界的に活躍するアメリカの金融機関のROE(株主資本利益率)は一四%以上とも言われる。先進諸国の実体経済の成長率が二九二%のときに、金融機関だけが飛びぬけた利益を上げ続けることに納得できないのは、単なる感情論ではない。

従来の金融行政は、伝統的な金融業を対象とし、どちらかというと金融業の公共性・安定性を重視してきた。これに対し、ビッグバンなどという言葉に代表される最近の金融論議や行政批判には、先端産業としての金融業の立ち後れに対する苛立ちがこもっている。この間には、案外深い川が流れているのではないだろうか。

上の妹が凄い見幕で電話してきた

例年の軽井沢行きが近づいたころ、上の妹が凄い見幕で電話してきた。親たちが軽井沢には行きたくないといっている、という。イヤならこなければいい、とこちらの返答は明快である。

しかし妹は、アタマの悪い女の長電話の典型で、話が関係ないところに飛びながらエンドレスに続く。内容がないから、話しているというよりは鳴っているという感じである。その中で、ときどきオヤと思うことがある。アタマのいい母親なら絶対に出さないボロが次々と出てくる。

軽井沢なんて、名古屋から長野を回って、汽車に乗る時開か長くて疲れる、とくる。旅費は十分に渡してある。グリーンの新幹線代をケチつて在来線の普通車に乗り、多少のカネを浮かそうとしているらしい。親はボロの木造なのに、お兄さんたちは広いコテージだそうだし、ともいう。これには驚いた。

軽井沢プリンスに木造の晴山館があったころの話である。あのホテルでは本館の部屋代が一番高い。雨の多い土地だが、濡れた道を食堂まで歩かないで済む。歴史も風格も料金のうちである。

その証拠に音楽祭の指揮者やソリストはここに泊まり、オーケストラのメンバーはコテージに入る。どうせ万事につけてひがみっぽく、人の好意に対しても常に悪口をもって応ずる母親の受け売りに決まっている。軽井沢にいっても着る服がないといっている、ともいう。これも、服を買うカネを寄越せという趣旨の母親の常套句である。

偏見をもちやすい性格

偏見は社会的に学習された態度であり、社会全体として、ある対象に対していだくまで発展する場合があるが、基本的には個人のもつ態度であり、それゆえ、個々の人々のもつ偏見の様相や程度には多くの差異がみられる。

しかも、偏見は、正常な態度のあらわれというよりは、異常であり、病的にゆがめられた態度であるために、どのような人が偏見をいだきやすいかということも一つの問題である。

偏見をいだきやすいかどうかは個人のもつパーソナリティーに関連があるだろうということが1940年頃からしだいに注目されはじめてきている。

多くの研究の中でも、アドルノ、フレンケル、ブルンスウィク、レビンソン、サンフォードらの行なった研究がもっとも有名なものである。それをここで紹介してみよう。

人種的偏見をいだきやすいのは、権威主義的パーソナリティーの持ち主であり、ユダヤ人に対する偏見は、次のような、人格構造と非常に関連があるというものである。

1.因襲尊重主義・・・伝統的、中産階級的価値への執着

2.権威主義服従性・・・集団内の理想化された権威に対する服従的、無批判的態度

3.権威主義的攻撃性・・・伝統的な価値を犯す人を看視し、非難し、かつ、これに反発し、罰しようとする傾向

4.内省的傾向の排除・・主観的、想像的で柔らかい心に対する反発

5.迷信とステレオ・タイプ的考え方・・・個人の運命に神秘的な決定要因があるという信念をいだき、固定概念で物事を考えようとする傾向

6.権力と不屈さ・・・支配する人と服従する人、強い人と弱い人、指導者と従属者の関係に関心をもち、権力のある人へ同一視し、習慣化された自我を極度に強調する態度、強さに対する誇張的態度

7.破壊性と人間蔑視・・・人間性への敵意や侮蔑

8.投射性・・・野蛮で危険なものが世の中をうろうろしているという信念、無意識的、情緒的衝動の外界への投射

9.性・・・性的な行為に対する過度な関心

これらの諸特性が結びつけられて、権威的なものを受け入れやすい態度構造が形成されるわけであるが、これらの諸特性は、特に、家庭における、厳しいしつけによって基礎づけられることが多いといわれている。

しかも、厳しいしつけの背後には、親と子の間に、厳しい支配と服従の関係がみられることが多く、しつけそのものからだけでなく、そうした親子関係からも、子どもは敏感に権威主義的傾向を学びとってゆくのである。

スウェーデンの生協

スウェーデン国内では1,200もの障害者グループが活動している強みで、貧しい国の障害者のことを知らせる開発教育に力を入れている。「途上国の障害者たちが作った民芸品の展示会や写真展などもよく開きます」とエケレフさんが、オフィスの一角の写真パネルを見せてくれた。洋服を縫う身障者女性グループ、車イスの人たちの製靴工場、トマトを収穫する目の不自由な少女たち。貧困と障害の二重苦にめげず、力を合わせて生きるアフリカの障害者たちの姿に深い感動と共感をおぼえた。

エケレフさん自身聴力障害に悩みながら、こうして遠い大陸の人々のことをまるで我がことのように真剣に考える、その優しさと威厳。4人の子の母親だが「子育てが終わり、8年前に3回目の手術で聴力障害が軽くなったので。成人学校に入ったんです。世の中の役に立つ生き方がしたいと思ったので」と実に明るい。まず、ろうあ者団体の広報の仕事についたが、SHIAが発足してスカウトされた。「アジアやアフリカの障害者の自立をお手伝いできるので、とてもやり甲斐があります」という彼女の柔らかな微笑に、途上国で最底辺に呻吟する障害者を思いやるスウェーデンの障害者たちの心を感じた。

ストックホルムで協同組合の店に入ったらレジのところに「国境なき基金」という募金の呼びかけが目についた。スウェーデンは協同組合運動が盛んで、生協の店が全国津々浦々に2,000軒もあるが「協同組合センター」が途上国の協同組合作りを応援するために何と1958年から続けているキャンペーンだ。

「その年にストックホルムで開かれた協同組合世界大会で、第三世界の協同組合作りを手伝おうとした。そのために募金しようという訴えがあり、スウェーデンの生協、農協、住宅協同組合、協同組合銀行など7種の協同組合全国組織が1968年にSCCを結成したわけです」と同センター事務所でイェンペリ所長がいった。

「1960年代に入って、第三世界の開発問題に取り組み始め、その活動が年々盛んになって、今では、年7,000万クローネ(17億5,000万円)もの予算を11ヵ国に使うほどになった」。活動の目的は三つ。一つは第三世界の協同組合の設立、発展を支援する。もう一つは会員に第三世界の問題を教育する。さらに協同組合間や、アジアとかアフリカなどの地域ごとに、そして国際的に協力関係を作る。

第一の南の国の支援の内容については。「スウェーデン協同組合開発援助年次報告」という写真や図入りの立派なパンフを渡された。「特に女性たちのためのプロジェクトに力を入れている。女性は最も貧しく、最も抑圧されているので、彼女たちが協同組合を作って少しでも自立できるようにするためだ」とイェンペリ所長が強調するように、インドではハリヤナ州の農村とアクラの町の女性の生活向上プ尽シェクト、スリランカでは生協女性幹部養成のためのセミナーを各地で開くのをサポートしたりしている。

かくされたメッセージ・テスト

「印象テスト」では、被験者はリストの中のごく一部の性格特徴だけを取り上げて、それに基づいてその人物の印象をまとめてしまった。「かくされたメッセージ・テスト」でも、雑音で単語のごく一部しか聞きとれないにもかかわらず、いつも完全な単語を聞きとったかのように、まとまった単語を報告した。もちろんそれは誤ったものが大部分だった。

同様のテストが、「失敗ストレス」を受けなかった被験者にも与えられたが、大多数の被験者は、わからないものはわからないままに、あいまいなものはあいまいのままにしておいて、無理に意味づけや、誤った答えを出そうとはしなかった。このように、自分の内に何らかの不安感を持った人たちは、外界のあいまいさに耐えられないで、自分で勝手に必要なものを補っても、完結した完全な外界を見ようとするのである。したがってこの人たちの知覚する世界は、普通の人の世界とはかけ離れた、歪みの多い不自然な世界ということができる。