秘密が守られる時・破られる時

私がここで行ないたいことは、日本外交から必要のない霞の部分を吹き払って、外交を真に国民的なものにするためには、どういうことが求められているかということを模索することである。「必要のない霞の部分」とわざわざ記したのぱ、外交には確かに秘密を要する部分があるという私なりの実感があるからである。その点についても、私なりの考え方を述べてみたいと思う。

まず、「霞が関外交」に主権者である国民の監視・監督の目が及ぶことを妨げている要因は何か、という角度から同外交の課題と考えるべきポイントを整理して考えてみたい。

外交は、国内問題と異なり、本質的に全面的な公開性という要請を満たし得ない性質をもっている。外交が主として国家間の利害の調整を重要な内容としてもっていること、その利害の調整は双方の冷静な対応が確保されることが成功の条件となること、国民は往々にして感情的になりがちであること、従って特に折衝・交渉段階では主権者である国民が一時的にせよ「目隠し」状態を求められる場合があり得ること、等々の事情を考えれば、外交には秘密性が必要とされることがあることは理解されるだろう。

確心に、折衝・交渉過程の秘密性が守られない場合もある。例えば、交渉を有利に進めるため、あるいは不利な交渉上の立場をびっくり返すために、国内世論を起こそうとするときに、相手国側にとって明らかにされたくない内容部分を故意に流すという操作が行なわれる。

かつて日本政府が中国政府に法外な「二十一箇条の要求」を突きつけたとき二九一五年一月)、中国側は日本の要求を暴露して国民世論さらには国際世論の対日批判を盛り上げることに成功し、日本はその要求をひっ込めざるを得なくなったことがある。