黒人問題

だが、ケネディが大統領に在任中、アメリカ国内で彼をもっとも悩ませたのは、いうまでもなく黒人問題だった。アメリカの黒人は、第二次大戦後に制定された憲法修正第十四条、および第十五条によって、法律的には平等ということになっていたが、南部の諸州では、州法や地方条例によってさまざまな差別が行われていた。こうした州法や条例は違憲だったが、その法律を違憲として無効とするためには、そのたびにいちいち最高裁違憲判決が必要だった。

一九五四年、合衆国連邦裁判所は、公立学校における人種差別を違憲とする判決を下した。一九五七年に議会を通過した公民権法では、黒人の投票権が認められないような場合には、司法長官がこれに介入できるようになった(だがこのときには、学校での差別廃止やその他の公民権事項を実施させる命令を、関係者からの訴えがなくとも司法長官が自由に出せるようにしようとした項目は否決された)。アメリカの憲法ではそれまでも黒人の投票権は認められていたが、南部の州では、有権者登録をするさいに、州憲法や州法の一節を読解させたりする読み書きテストを州民全体に課すことによって、実質的に黒人の投票権に制限を加えていたのである。

こうした差別をなくすために、アメリカの南部では、黒人たちの長く辛い闘いが続いていた。その闘いの一環として、一九五五年から五六年にかけて、アラバマ州のモントゴメリーでは、黒人によるバスーボイコット運動が行われた。一九六〇年二月には、ノースカロライナ州のグリーンズボローズで黒人学生がランチカウンターで食事をするのを断られたことをきっかけに、座り込み運動を始めた。こうした運動を指導したのが、当時まだ二十六歳の無名の若者にすぎなかった、バプティスト教会のマーティンールーサー・キング牧師だった。これらの運動はいずれも非暴力の抵抗というかたちをとった。

一九六一年五月からは、フリーダムーライダーズ「自由のための乗車運動」が始まった。これはいくつかのグループを北部から南部に派遣して、バスーターミナルのレストランや待合室、トイレなどで差別待遇に挑戦しようとした運動だったが、アラ、バマ州では白人の暴徒に襲われ、ライダーズたちはこん棒や鉄パイプで殴られた。しかしそれに屈することなく、急進的な学生非暴力調整委員会(SNCC)や南部キリスト教指導者会議はさらに多くのライダーズをアラバマに向けて送りだした。

それに伴って白人による襲撃も激化し、ときにはバスに火がかけられることさえあった。暴徒は百人以卜になり、ライダーズの数も千人以上になった。いまにも大暴動が起こりそうな気配だった。事態を憂慮した司法長官のロバートケネディは、友人のジョンーサイゲンサラーを現地に派遣したが、彼も暴徒に殴られて意識を失うありさまだった。