日本人とアメリカ社会の溝

これまで見てきたように、日本人とアメリカ人の生き方は、はっきり異なっており、また、個人の集積である社会についても、本質的に違っている。同じ人間であるにもかかわらず、価値観、行動の基準、社会のメカニズムか大きく異なっているのである。一見同じように見える大地でありながらも、その上に繁る草木に差異かあるように、国の文化、制度のなかで生きる人間には、それに見合うような特色か備かっているものなのだ。もともとは個人個人の特徴の集積により、社会か形成されるが、できあがった社会制度、システム、ルールによって、今度は逆に個人個人が社会から影響を受ける。個人と社会は互いにもつれあいながら、それぞれの社会、国家を形成している。どちらかを切り離して単独で存在することは許されない。

つまり、アメリカの制度、システムは、アメリカ人の精神の上でこそうまく機能するようにできているわけだから、アメリカで確立している制度、システムをそのまま日本に持ち込んだとしてもうまく機能しないのは考えてみれば当然のことだろう。にもかかわらず、現在日本か進めている改革には、この基本的認識か欠けているように見える。単にアメリカの物真似をするのではなく、日本人と日本社会に合うように改善してから導入すべきだ。この点を無視した改革は、まさしく改悪に変じるだけである。そんなことはない、アメリカ人にできることが日本人にできないわけがない、と強調する向きもある。アメリカで育った子どもは、アメリカ人のように振る舞うではないか、言葉は違っても話せばわかる、と言い張る人もいよう。

しかし、現実に社会のなかに生きているアメリカ人と日本人が違うことはこれまで示したように人文科学的に明らかだし、仮にそれを否定したとしても、自然科学的には両者のDNAが違うという客観的事実かある。DNAの違いか、青い眼のような形態的な違いをつくると同時に、意識の違いをも引き出すことは十分に予想される。性格や価値観とDNAの関係については、まだ詳しい研究がなされていないか、アメリ力の同性愛者にはDNA上の特色がみられる、という研究発表がなされている。アメリカ人同士のなかでも、DNAの違いか一つの性癖をもたらすことがありそうだ、ということか確実になってきているのである。だとすれば、日本人とアメリカ人のDNAの違いにより両者の意識や行動に差が出てもおかしくはない。

そして、DNAの違いは遺伝に由来するものだから変えることはできない。つまり、日本人はアメリカ人にはなれないということだ。日本人かアメリカ人になれないなら、日本社会がアメリカのような社会に変わることができないのは当然だろう。むしろ、変わるべきではないのだ。これまで日本は、日本人の精神と伝統社会をもとに、優れた文化をつくりあげてきたし、明治維新以降も、世界史上極めてまれに見る発展を遂げてきた。日本的であったからこそ成し遂げられた快挙だ。この数千年に及ぶ日本の固有の文化と心を壊す必要はない。

壊すまでもなく、グローバリゼーションの時代に対応して変えるべきだ、との主張もあろう。しかし、なまじっかの改革か改悪に転じることは、これまで示した例のごとくである。和の精神を大切にする企業文化のなかに無理矢理、欧米流の個人主義を持ち込んだことが、日本企業の活力をかえって損ねたことは実証ずみだ。日本的なことを変えるということは、日本の力を弱め、競争相手国を喜ばすだけである。明治維新から一九八〇年代までには良いものとして存在した日本の固有の文化、制度か、たった十年で失われるはずがない。二十一世紀の日本を繁栄に導いていくためには、こうした日本の文化、制度の根幹を再認識し、必要なものは守っていくことこそ第一に考えなければならない。