「モノの豊かさ」から「心の豊かさ」へ

今回の日本の不況は、バブル経済の崩壊を契機として起こったので、それとの関連で議論されることが多いが、以上のように考えると、かりにバブル経済とその崩壊とが無かったとしても、成長の鈍化は避けられなかったのではないだろうか。ただし、バブル経済の影響で、好況がいつまでもつづくかの錯覚が生じ、それに影響されて過剰投資が行われたため、その反動で、不況の底が必要以上に深くなった面は、確かにあるだろう。

「黄昏」「行きづまり」が近づいて人びとが「飽食」すると、モノはなかなか売れず、消費需要は振るわない。他方、モノの供給能力はありあまるほどあるから、需要とくらべて供給超過となる。そこで起こるのが、常識はずれの安売りで、それは「価格破壊」と呼ばれる。

しかし、まさに「飽食」して豊かな消費者には、低価格だけでは通用しない。ニューヨークのタクシーが東京と比べて、いかに安いと言っても、あのエアコンもない汚いボロ車に好んで乗りたい日本人は、そう多くはいないだろう。「激安」の背広にしろ輸入缶ビールにしろ「価格破壊」が、結局のところ話題提供程度のことで終わったのは、そのためだと思われる。

ある時期の企業は、上で「年増の厚化粧」と呼んだとおり、この「行きづまり」を打破するためには「製品差別化」を徹底的に行えばいい、と考えた形跡がある。それは「ソフト化・サービス化」と呼ばれ、そういう方向を追求することが、まるで将来の経済・産業が進むべき方向を示唆するかの議論が、しきりになされた時期もあった。

つまり、基本的には似たような商品を、サイズやデザインやネーミングを変えてさまざまに「差別化」し、広告・宣伝で大いに売り込もうとした。たとえばビール・メーカーは容器競争に狂奔し、あるメーカーは、注ぐときに「ホーホケキョ」とウグイスが啼く樽を出しさえした。だが、そういう小手先のことは、結局駄目だった。

この窮状を打開するための条件は、新しいリーディング・インダストリーとなり得るだけのパンチカを秘めた、大型の新産業が誕生することだろう。しかし、新産業誕生の議論はまことに多いけれども、実際にはその誕生は至難の業である。目下話題の情報通信産業が、はたしてそれであるかどうかは、後述するように、にわかには判断できないと私は思う。