看護婦さんは触媒のようなもの

お互い、このひとと、どうつきあっていったらいいか、探りを入れますね。Aさん 病状や治療の経過、結果について、看護婦の立場でどこまで患者に説明すべきか、見極めをつけることが大切です。ただしすべてを話してショックばかりを与えたのでは逆効果ですからね、その見極めを誤ると大変です。見極めに誤りがなく、コミュニケーションがかみあって、互いに前進できたときは、ほっとしますね。お互いの信頼関係ができるまで時間のかかるひとは、たくさんいるわけです。そこで看護婦は、ほんとに努力します。するとだんだん患者さんもわかって努力してくれる。そうなったときには、何ともいえない充実感を覚えます。これは看護婦しか味わえないものでしょうね。でもこれは別にだれに話すというものでなくて、自分のひそかな財産にしているのです。自分が看護婦をしていくうえでの蓄積であり、センスであり、武器だと思う。やわらかく言うと自信ですね。

いっしょに勝馬になるというか、いっしょに頂上に登りつくというか。Aさん 努力して実らすことがあたり前でね、実らなければさらに看護婦の努力が必要です。患者を責めることはできません。看護婦というのは常に努力することと結果を求められている。そして、よい結果が出ても評価されることは少ない。自分で自分をほめ、財産としてしまいこんでおくだけです。でも明らかに鳥海さんは、退院後、誰になおしてもらったかというとAさんだと認識しています。Aさん 私たちは、患者さん自身がそういう気持ちになれることへのお手伝いをするだけなんです。彼女自身が自分で達成したわけで、私か達成させてあげたわけではない。だから、あくまでも患者さんがそういう気持ちになれる、そういう環境をできるだけつくってあげるお手伝いをするだけなんです。彼女はそういうふうに表現なさったかもしれませんが、私としてはそうじゃないと思っているんです。それがわれわれの仕事ですから。鳥海さんだけを特別にしたということはないわけです。

Aさん いろいろな患者さんがいて、たとえば十段階の努力があるとしたら、鳥海さんには十一段階ぐらい努力したかもしれない、一しか努力しなくても、入院したその日からお互い良い関係ができるひともいる。これはだれがいいとか、だれが悪いという問題じゃなくて、お互いのバイオリズムもありますからね。やっぱりそうなんですね。一種の努力の賜物なんですね。Aさん 患者さんは自分の病気のことで精いっぱいで、看護婦との人間関係についてあまり努力してくれませんから。もちろん努力してくれるひともいます。鳥海さんも途中からきちんと努力してくださったし、だから私との関係もいい方向にいけました。しかし最後まで努力することに気がつかない患者さんもいるわけです。

それで患者さんを非難できるかといったら、これはできないですね。ほんとはしたい部分もあるんですが。いままで何十年間どうやって生きてきたの、と思わず聞きたくなるひとがいるんですが、面と向かっては言えないですよ。これが看護婦としてでなくて、ふつうの人間としてだったら私はいくらでも言えるのに、相手が患者ということになると、それは言えない。心も体も病んでいるんだと思えばね。Aさん それが自分の仕事だと思えば、それは言えないです。そこがつらいところですね。ただ、自分のなかでそういう葛藤はだれにでもあります。その葛藤をどうやって自分が乗り越えるか。ひとつ言えるのは、患者さんは精神も身体も病んでいるわけです。私たちは元気なんです。だから、私たちはいくらでも努力できるんです。それが仕事なわけですから、それでいいんじゃないでしょうか。

手術後、一週間も幻覚幻聴に見舞われたことで、鳥海さんはあとでかなり混乱し、自信を失うようなことがあったのですが、事前に示唆があればそれほど混乱しないですんだのではないか、コミュニケーション不足を感じさせられますし、インシュリン減少のこともそうですね。糖尿病の症状がひどくなって二度目の入院をしたあと、長期の不眠におちいったりして、相当にショックだったのです。Aさん 鳥海さんが受けられた眸頭切除手術の場合の麻酔の影響は予測がしにくく、高齢だったりするほかは、一般的には本人もすぐに忘れてしまう幻覚幻聴と考えられていて、事前に説明する種類のものではないのですね。結果としては、コミュニケーション不足と言われてしまいますが。難度の高い食道の手術などですと麻酔も強く、百パーセント幻覚幻聴が出ますから、医師の指示で看護婦がそう伝えます。医師は手術そのものについてだけ説明するのがふつうです。