経済的繁栄が人間の生き方を急に変える

その一人は、日本の物理学会の会長をしている米潭富美子さんである。物理学の先端の話を素人にもわかりやすく聞かせてもらったが、そのときに、「私にはアトムがぶつかる音が聞こえるのです」と言われ、「ボカン・ボカン」と迫真力のある表現をされ、聞いているわれわれも思わず笑ってしまった(河合隼雄他著『洛中巷談』潮出版社、一九九四年)。しかし、このときに思ったのは、このような第一線の科学者は、その人個人としては身体性とつながる研究をしている、あるいは、身体性の喪失を病んでいないということである。次の例は、ロシアの宇宙飛行士レベデフさんの話である。彼は百日以上も宇宙飛行を成し遂げた人である。これは大変なことで、余程自分の身体のことに心を配ってないと地上に帰れない。たとえば無重力のなかにいて筋力のトレーニングをしていないと、地上に帰って立つこともできない。

そんなわけで、私は彼が宇宙飛行の間、食事、睡眠、身体のエクササイズなど、極めて秩序正しい生活を、鉄の意志でやり抜いているのだと思っていた。しかし、実際は違っていた。レベデフさんは「体の声に従っていた」と事もなげに言う。つまり彼の表現によると、彼の体が「そろそろ運動しようか」と言うと運動する。「眠いな」と言うと眠る、というのである。そのようにしたので身体の状態をうまく保つことができた。もし決まり切った予定に従ってやっていたら、単調さに耐えられなくて、とうてい百日以上も地球外にいることはできなかっただろうとのことであった。

これらの例は、先端を行く科学技術の専門家は、それなりに巧妙に「身体性」を失わぬ工夫をしている、ということである。このことは科学技術が極端に発達し、その「恩恵」のなかに生きている現代人に対して、何らかのヒントを与えてくれるようである。最先端の科学技術について述べているうちに、だんだんと自分の専門とする「人間」の問題に近づいてきた。既に述べたように、科学技術の発展は、他方で人間のストレスを増すような作用を持っている。それと近代医学が急激に進み、多くの感染症などがどんどん治されるようになったが、近代医学的な方法によっては極めて治療が困難な、心身症のような病気が増えてきた。

人間の心の問題について考えると、この傾向はもっと強いと言わねばならない。長寿になるのはいいが、老年になってからどう生きるか、高齢者と共にどのように生きるか、などの問題は深刻になり、多くなる。科学技術の進歩は急激で、それに伴う経済的繁栄が人間の生き方を急に変える。しかし、人間の生き方の根本はそれほど簡単には変らない。このため、何かで「いいこと」や「便利なこと」が行われると、そのために悩まねばならない人が必ず出てくる。家族関係の在り方など、この五卜年で、あまりに急激に変化してきたので、現在の日本では、家族のことで悩みのない人の方が少ないくらいだろう。悩みを無くしたい、葛藤を早く解決したい、と願う人は、圧倒的な成功を収めてきた近代の「科学技術」の力に頼ろうとする。あるいは、それによって助けてもらおうと思うのも無理はない。

人間を心と体に分けて考え、体を客観的対象として研究するように、心も客観的対象とするなどということはできないので、人間の「行動」を対象とする、あるいは、心をできる限り対象化する、という方法で、人間の悩みを解決するための「科学技術」という考えをする人もある。これがある程度の成功を収めることも事実であるが、それは科学技術によってテレビや車が操作されるように、いつもうまくいくとは限らない。これは当然のことで、人間は「物」ではない。それを完全に客観的対象にすることなどできない。そこには必ず何らかの「関係」が生じてくるからである。

この点については、これまでいろいろなところで述べてきているので議論は避けるが、研究者と研究される現象との「関係」の存在を前提として、その関係の質によって現象も変化すると考える「科学」が、人間を研究するためには必要である。人間存在はそのなかに大きいブラックーボックスをかかえている。その顕れ方がそれを観察する人との関係によって大きく変ってくるのだから、近代の物理学を発展させた方法論がそのまま通じるはずがない。次に、人間の科学における大きい問題は、「偶然」をどう取り扱うかである。C・G・ユングはこの点について気づき、人間のことを研究するには、因果律のみではなく、共時性(synchronicity)についても注目すべきことを主張した。