女子修道院長の権力

たとえばカノッサ女伯マチルダ。彼女は一〇四六年に生まれた。一〇五二年、父が死去し、莫大な土地財産をのこした。二人の兄弟を失って唯一の遺産相続人となった彼女は、夫をも早く亡くし、独力でのこされた土地を守った。そしてそれとともに、いやそれ以上に教皇を守護することに全力をそそいだ。彼女はよく知られているように、一〇七七年、破門された皇帝ハインリヒ四世を教皇グレゴリウス七世にとりなして、その破門をとかせるという快挙をはたしている。その後、学識豊かな彼女の宮廷には。いたるところから。彼女に会いに騎士たちがあつまった。皇帝ハインリヒは、恩知らずにも一〇八二年にこの勇猛の女伯から譲歩を引きだそうとして。イタリアのトスカナ地方に侵入するが、マチルダはなんとかもちこたえる。

さらに四十六歳にもなって弱冠十七歳のバイエルン公ヴェルフと結婚して、反皇帝同盟をより堅固にするのである。カノッサ城の麓で、彼女はいったんハインリヒに財産を奪われるが、反撃して徹底的に敵軍を壊滅させる。そして、城をひとつずつ回復していった。もう一人の傑出した女性、エレアノールーダキテーヌ。フランスの王妃となったのち離婚し、ついでイングランドの王妃となったという類例のない人生を送った人物である。彼カノッサの女伯マチルダ女はポワチエ伯にしてアキテーヌ公ギョーム九世の孫として一一二二年ごろ生まれ、その土地を相続した。フランス王の直轄領よりも広大な土地の支配者となったわけである。

彼女は一言一七年、ルイ七世に嫁いだが、政治家としての夫の無能に愛想をつかした。そこで彼女は一一五二年に血縁の近さを理由に離婚したが、なんと二ヵ月後にはプランタジネット家のヘンリーと結婚している。そして一一五四年にヘンリーが王位に着くと王妃になり、八人の子をもうけた。宮廷はあちこちに移動したが、なかでもアンジェやポワチエでは王と王妃がパトロンとなって詩人や宮廷人がつどい、華やかで輝かしい宮廷生活がくりひろげられた。彼女が権力をにぎり、政治活動にめざめるのは、夫のヘンリーらである。息子リチャードを戴冠させ、かれとともにアンジュー王国をおさめ、計量・貨幣改革を断行し、息子たちの政略結婚を御膳立した。

とくにリチャードが第三回十字軍で捕虜になったときは、ほとんど一人でその広大な王国をおさめ、教皇・王侯と交渉して叛徒から守りぬいたのである。ルネサンス時代には、女性の権利は一層縮小したが、一握りの女傑が強大な権力を行使したことはよく知られている。フランス王妃カトリーヌードーメディシスや、教皇アレクサンデル六世の娘ルクレツイアーボルジアを、思い起こしてみればよい。それでは、宗教世界には、このようにおおきな権力をふるう女性はいたのであろうか。教会は世俗社会以上に男性支配の世界であったが、そのなかでは女子修道院長が、ときに非常な権力をもつことがあった。

たしかに彼女は一女性であるかぎり聖職にはつけなかったが、それでも付属教会内での裁治権をもっていた。管轄下の聖職者を司祭に任命したり、礼拝堂付き司祭や、司教座聖堂参事会員に任命したりしたし、さらにその職(禄)を奪ったりもした。また、彼女は公会議に出席したり、司教区教会会議を召集したり、(二重修道院の場合)傘下の男子修道院を管理したりすることがあり、まさに男の修道院長、いや司教に比肩する権力をもっていた。