人間は宇宙の大生命から生まれる

このような雪嶺の激越なことばの背景にあるのは、彼の徹底した官僚嫌いであり、官僚主導の立国に反対する立場であった。三宅雪嶺は一生のあいた官職に就かなかっただけでない。彼は、京都帝国大学の初代文科大学長のポストの誘いに対してもヽなんのためらいもなしに断わつている。さらには、私立大学の教授の地位さえも官僚的な権威主義の弊風に染まったものとして、それに就こうとしなかったほどである。

しかし、哲学者としての三宅雪嶺を考えるとき、大いに再評価に値する、とあらためて私か思ったのは、彼が大著『宇宙』(一九〇九年)において主張している《宇宙的な生命論〉の内容である。雪嶺によれば、宇宙は単なる物質的な存在などではなく、一つの活発な有機体である。それは、生命があり精神生活をさえ持っている有機的な一大生物である。いいかえれば、〈超絶的に大なる我》である。それゆえ、われわれ一人ひとりの生命もその絶大な有機体の一部をなし、生前はもちろん死後も小我は大我に合して《渾然たる大生命〉のうちに生きるのである。このような宇宙的な生命論を、彼は《渾一観》(異なったものが一つに融けあうとする考え方)と呼んでいる。

すなわち、宇宙は一体をなして生きている巨大な〈超生命体的生物〉であり、複雑きわまる組成からできている。その生命は人類の生命の動きに似てはいるか、人類の生命からは類推できず、むしろ、それが人類の生命の大本をなしている、というわけである。このように宇宙が絶大な生物であるとすると、宇宙と人類との関係は、人間と細胞との関係によく似てくる。人間とは宇宙の一分子であり、直接間接に宇宙からの恩恵に浴している。その限りにおいて、人間は何処から来たり何処へ帰るのかといえば、人間は宇宙の大生命から生まれ、死後またそこへと帰る。帰るといってもなにも無に帰するのではなく、変形してまたもとの大生命に戻り、新しい世界の建設に参与するのである。

このような三宅雪嶺の〈渾一観》は、あたかも、二十世紀フランスのユニークなカトリック思想家テイヤールードでシャルダンの《オメガ点〉の思想と似ている。「世界をつくるために、愛の力に駆られてそのすべての断片は互いに相求めて集う」と喝破したテイヤールである。今日の人びとの最大の関心事である《生命〉の問題を考えていくと、否応なしに地球的規模の生態系だけでなく、さらには宇宙的生命まで考えざるをえなくなる。それだけに、三宅雪嶺の『宇宙』は大きな先駆的意味を持っているのである。