定年退職を契機とした人材流出

もし今後、日本の各企業が能力給を導入した結果、生産性の低下に比例して給料が下がり、生活に支障が出る人が現れたとしたら、それは最終的に厚労省が面倒を見るべき問題なのである。一方、入社して二、三年の間は賃金カーブが生産性を上回っている。要するに、大学時代に必要な能力を身につけてこないからこうした問題が起きているので、この部分は文部科学省の仕事である。つまり、戦後、多くの日本企業は、本来、厚労省文科省が世話を焼くべきことを代行してきたのである。だが、それも企業経営に余裕があり、かつそこに費用とエネルギーを使うことが経済合理的だったからできる話であって、いまは大企業ですら最低限の利益確保に精一杯で、教育に時間もコストも割けられない状況だ。

そう考えると、今後、日本企業がこれまでと同じような負担を担い続けるのは、物理的に不可能である。おまけに「標準家庭」生活給モデルで救うことになっている「標準家庭」なるもの自体が、いまや絶滅危惧種なのだ。労働者の生産性に応じて公平に賃金を支払う責任。年収が1000万円でも働いてもらいたい人もいれば、年収が一〇〇万円でも必要ない人もいる。ただ、それまで三〇〇万円の年収だった人が、いきなり一〇〇万円まで下がってしまうと、さすがに不都合が大きいだろう。そういうときにこそ、厚労省が働かなくてはならない。

二五歳の人と五五歳の人の生産性が同じなら、給料も同じにする。正規雇用と非正規雇用、男性と女性などの区別をしない「同一労働・同一賃金」。能力給とは本来そういうものである。もし本人の選択として長期雇用型と短期雇用型がある場合、そこに対価の差があるとすれば、雇用という継続的契約関係において、時間的なコミットメントやリスクや情報の共有(研究開発や生産技術開発においては、こうした要素が大きな意味を持ってくる)といった経済的に合理的な要素に基づいて、長期的な生産性の差異が認められる場合に限るべきである。

そして、どうしても年収一〇〇万円しか得られない人がいたとして、その人をどうするか。これは明らかに社会保障の問題だ。ナショナルーミニマムの観点で厚労省に考えてもらおう。何でも企業に押しつけようとするから、人件費が高止まりして、企業の国際競争力をそいできた面がある。このままでは、本当に稼ぐ力を持った日本企業は、国内からいなくなるかもしれない。そうなると労働条件うんぬんを言う前に、雇用そのものがなくなり「全滅」である。すでに東日本大震災以降、悲鳴を上げて多くの企業が海外に出ていっている。その勢いを止めるためにも、「同一労働・同一賃金」を再び真剣に考え、社会全体で受け入れなければならないのである。

生産性を省みないもう一つの不幸人材流出。いまや生産性を省みない労働慣行のもう一つの典型例が、定年制である。一定の年齢に到達したことで、人間の能力が一律にゼロになるなんてことはあり得ない。実際、電機メーカーのベテラン技術者が、まだ能力もやる気もあるのに、定年という理由だけで退職し、少なからずがサムスンなどのアジアのメーカーに流出してきた。実際、半導体や液晶の製造技術に関して、彼らがあれだけのスピードで日本メーカーに追いついた背景には、定年退職を契機とした人材流出がある。